第一章

第一節

 一 The Letters of William James, Selected and Edited with Biographical Introduction and Notes by his son Henry James, Longmans, Green, 1920.(abbr. L.W.J.), T, p.10
 二 ib. p.16-17
 三 R.B. Perry; The Thought and Character of William James, Little, Brown, 1935.(abbr. T.C.W.J.), T, p.3
 四 L.W.J., T, p12 
 五 ib.
 六 ジェイムズはその宗教的思想において不遇であった父の考えをそのままうけつぎ、時代の熟した時期に開花させた、ともいわれる。即ち、彼は一九〇二年『宗教的経験の諸相』なる著書を出し、そこで前述される如く見事な経験論的宗教論を展開している。彼は父の死後すぐに妻にあて次の手紙を送っている。「あなたは人間の精神生活と運命において父の考えた宗教の価値と意味について私がもう少し理解する迄私から離れてはいけません。それは彼がいったように必要な唯一のものではありません。がしかし他のものと同じく必要なものです。私の友達はそれをまったく見捨てています。私は彼の息子として(その他の理由がないとしても)彼らの前にそれの正当な権利がえられるようになる迄もっていかなければなりません。そしてそのために私はかつてなさなかった程にそれを正しく解釈するよう学ばねばなりませんし、あなたは私を助けなければなりません。」(T.C.W.J.,U, p323)それ故『宗教的経験の諸相』は妻へのこの誓約の実行であり、父の考えを息子が代弁したものであるとも考えられるのである。
 七 T.C.W.J.,T, p.177
 八 ib. p.199
 九 ib. p.191
一〇 L.W.J., T, p.31-32
一一 T.C.W.J., T, p.207
一二 ib. p.208
一三 ib.
一四 ib.
一五 L.W.J.,T, p.56
一六 T.C.W.J., U, p.322
一七 ib.
一八 L.W.J., T, p.9
一九 ib.
二〇 面白いことにはジェイムズは自分の著作の中には文学者からのおびただしい量の引用をしているにもかかわらず、弟ヘンリーからは一つもしていない。
二一 L.W.J., T, p.193

1 L.W.J., T, p.209
2 T.C.W.J., T, p.193
3 L.W.J., T, p.49
4 Memories and Studies, Greenwood, 1968,(abbr. M.S.), p.14
5 The Varieties of Religious Experience, The Modern Library,1929,(abbr. V.R.E.), p157
6 T.C.W.J., T, p.322
7 ib.
8 L.W.J., T, p.147
9 ib. p.148
10 ib. p.142
11 ib.
12 T.C.W.J., T, p.328
13 L.W.J., T, p.169
14 T.C.W.J., T, p.219
15 L.W.J., T, p.171
16 ib.
17 ib. p.294
18 ib. p311
19 ib. p.192
20 T.C.W.J., T, p.376


第二節

一 第三章第四節を参照
二 自由の問題と多元論の関係については第三章第五節を参照
三 T.C.W.J., U, p.209

1 A Plralistic Universe, Longman, Greens, 1909,(abbr. P.U.) p.176
2 The Will to Believe and Other Essays on Popular Philosophy,Dover,1956,(abbr.W.B.)p.103
3 V.R.E., p.148
4 W.B., p.262
5 ib. p.61
6 Pragmatism, Meridian Books, 1943,(abbr.Prag.), p.186
7 W.B.,
8 ib. p.13
9 ib. p.16
10 P.U., p.249
11 W.B., p.157
12 Some Problems of Philosophy, Longmans,Green,1911,(abbr.S.P.P.), p.165
13 Talks to Teachers on Philosophy and to Students on Some of Life's Ideals, Dover,1962,(abbr.T.T.), p.87
14 W.B., p.11
15 ib.
16 ib. p.98


第三節

一 T.C.W.J., T, p.459
二 実在と信念の関係については第二章第五節において詳細にのべられるであろう。

1 P.U., p.251
2 V.R.E., p.479
3 ib. p.489
4 P.U., p.289
5 V.R.E., p.492
6 P.U., p.289
  7 The Principles of Psychology, Dover,1950,(abbr.P.P.), T, p.316
8 ib. U, p.297
9 ib. p.298


第四節

一 J.E.Smith; The Spirit of American Philosophy, Oxford Univ., 1944, p.188
二 I.M. Bochenski; Europaische Philosophie der Gegenwart, Leo Lehner Verlag, 1951, p.15
三 ib. p.33
四 J. RoyceのWilliam James and Other Essays on the Philosophy of Lifeを参照

1 P.P.,T, p.634
2 ib.
3 ib. p.636
4 Prag. p.122
5 The Meaning of Truth, Longmans, Green, 1909(abbr. M.T.), p.57~53



第五節

 一 ジェイムズの唯物論批判は徹底している。彼が批判の対象として持ちだすのは、ただ自然科学的唯物論だけであり、フランス的唯物論は勿論、弁証法的唯物論については、あたかも存在しなかったかの如く、無視しているのである。
 二 この例はロッチェの『形而上学』の中にみられる。しかしジェイムズが絶対的観念論(彼の言葉でいえば絶対者の哲学)を批判する際にヘーゲルを念頭においていることはあきらかである。ジェイムズはヘーゲルを「素朴な観察者」としては高く評価しながらも、「単なる経験的局面の報告者よりもすぐれた人間になろうとし」「大変嫌悪すべく書いたので」「彼を理解できない」という。
1 P.U., p.20~21
2 ib. p.31
3 Prag. p.70
4 W.B., p.83
5 ib.
6 P.U., p.43
7 ib. p.31
8 ib.
9 ib. p.25
10 ib.
11 ib.
12 ib. p.27
13 ib. p.30
14 ib. p.43
15 ib. p.28
16 ib.
17 ib. p.36
18 ib.
19 ib. p.37
20 ib.
21 ib. p.55
22 ib. p.192
23 ib. p.39
24 ib. p.40
25 S.P.P., P.vii~viii


第二章

第一節


一 この点については『多元的宇宙』の第一項及び『哲学の諸問題』の第一章に詳しくのべられている。
 二 主知主義が合理論的であれ、経験論的であれ、ジェイムズによって批判されるのは本節に説明されている理由による他に、もっと情緒的な理由にもよる。たとえばジェイムズは『信仰と信じる権利』において、主知主義が個人的な好みを否定し、信仰を禁じている点を指摘する。
 三 Malebranche; Entretiens sur la metaphysique, 3, me. Entretien viii, 9, (cf. S.P.P., p.75~76)
 四 ジェイムズが引用した、W・ウオレスの言葉(cf. S.P.P., p.75)
1 P.U. p.291
2 ib.
3 ib.
4 Prag. p.99
5 P.U. p.280
6 ib. p.326
7 W.B., p.viii
8 ib. p.vii
9 M.T., p.viii
10 P.U., p.289
11 P.U., p.282
12 ib. p.106
13 S.P.P., p.83
14 ib. p.76
15 ib. p.75

第二節

 一 概念に対するジェイムズのこのようなわりきり方は一種独断的な感じさえある。ジェイムズにとっては「概念的世界においては連続性は不可能である」(S.P.P., p.90)のであり、それ故概念は目的論的道具として利用価値をもつ以外に考察される余地がないのである。
 二 小熊虎之助『ウィリアム・ジェイムズ及び其思想』心理学研究会、大正八年、二一八頁
 三 同書、二二○頁
 四 ここでジェイムズはロックやヒューム及びヘルバルトの考えを思いうかべていたと考えられる。
 さて本文からも察知されるように、ジェイムズの考えている「普通の経験論者」、「伝統的経験論者」とは彼らのことをさしているのはいうまでもない。ジェイムズはロックの単純観念、ヒュームの印象あるいはバークレーの感覚的諸性質は経験においては実現化されない抽象、即ち主知主義の産物であると考える。即ち彼らは経験の連続的性格を否定し、経験を原子的感覚的存在の寄せ集めとして理解する主知主義者であった。とりわけジェイムズはヒュームを「原子論説のヒーロー」として批判する。彼はヒュームの『人性論』の中の言葉「精神は質ないし量について、その各々の程度の正確な考えを形成するのでなければ、いかなる考えも形成することはできない」に着目し、そこから、ヒュームが質・量における正確な(たとえ弱いfaintであっても)考えの形成を前提していること、即ち精神のアプリオリズムを認めていることを指摘する。そのことによってジェイムズがいいたかったのは、印象は必ずしも明確である必要はないという点(従ってあいまいなvague印象もあるという点)であり、特にヒュームの印象は印象として現出しない大半の経験的事実に対する配慮を奪ってしまっているということなのである。
1 M.T., p.xii - xiii
2 Essays in Radical Empiricism,Longmans,Green,1912,(abbr.E.R.E.), p.42
3 ib. p.160
4 ib. p.42
5 ib.
6 ib. p.149
7 ib. p.43
8 ib.
9 ib. p.48
10 ib. p.148
11 ib. p.139
12 ib. p.52
13 P.P.,T, p.220
14 E.R.E., p52~53
15 P.P.,T, p194
16 ib. p.195
17 ib.
18 ib. p.196
19 ib. p.197
20 E.R.E., p.37
21 ib. p.9
22 ib. p.9~10
23 ib. p.27

第三節

 一 ジェイムズは一八八四年雑誌『マインド』に「内省的哲学の見落したもの」と題する論文を発表して、これらの点について触れている。この論文はジェイムズ心理学生成に重要な役割をはたしているといわれる。ジェイムズは意識あるいは考えの流れの「推移的部分」の存在とその重要性に気づいた時、それまで遅々としてほとんど進まなかった『心理学原理』の著述が以後スムーズになされた、といわれている。事実、この考えはジェイムズ思想の中核であるといわれうるのである。尚この論文のテーマは『心理学原理』第九章『考えの流れ』の中にものべられている。
1 E.R.E., p.8
2 ib. p.4
3 ib. p.12
4 ib.
5 ib. p.12~13
6 ib. p.13~14
7 ib. p.26
8 ib. p.27~28
9 ib. p.36
10 ib. p.5~6
11 ib. p.3
12 P.P.,T, p.401
13 E.R.E., p.16
14 P.P.,T, p.237
15 ib. p.245
16 ib
17 On Some Omissions of Introspective Philosophy, Mind, 1884, p.10
18 P.P.,T, p.245~246
19 ib. p.288

第四節

 一 このプラグマティックな方法は単に活動の意味をあきらかにするためのみならず、後述されるようにジェイムズのすべての事物のとりあつかいに際し採用されている方法であるが、それを先どりすれば次のようになろう。即ちその方法とはどこかに事実の差異を生じない真理の差異はないという公準から出発し、そして意見のすべての差異の意味を、できるだけ早く、ある実際的なないしは特殊な問題によってその議論を定めようとする態度を意味している。
 二 現金価値cash-valueなる言葉はジェイムズのプラグマティズムの真理観を示す比喩的な名前である。即ち経験的世界においてどれだけ通用しているかによって真理についての判断をきめようとする考え方を示している。
 三 E.R.E., p.178
四 この表現はジェイムズ・ランゲの情緒説の考え方にも通じている。
1 E.R.E., p.178
2 ib. p.167
3 P.U., p.185
4 ib.
5 ib. p.186
6 ib. p.187
7 ib. p.194
8 ib. p.192
9 ib. p.196
10 ib. p.287
11 ib. p.284
12 ib. p.272
13 P.P.,T, p.5
14 ib. p11
15 E.R.E., p.48
16 M.T., p.124

第五節

 一 ジェイムズは次のような例をあげている。第一の選択とは二つの仮説の両方が生きている場合の選択である。たとえばジェイムズの如きアメリカ人にとって「接神論者かさもなくば回教徒になれ」なる選択は死んでいる。なぜならば接神論者にしても回教徒にしてもアメリカ人一般にとってはそれらはいずれも死んでいる仮説であり、従ってそのどちらもアメリカ人の信念に考慮すべき程に訴える力をもっていないからである。ところがアメリカ人に「不可知論者かさもなくばキリスト教徒になれ」ということになると話は別である。いうまでもなく不可知論にしてもキリスト教にしてもそれらがアメリカ人の信念に影響を与えているからである。この際二つの仮説が矛盾しているかどうかは問題ではない。一人の大学受験志望者がA大学とB大学のいずれかを選ぶ時に、その両大学の特徴が似ていても、彼にとっては生きた選択をしているといえるのである。第二の選択はその選択の回避が可能であるかどうかにとって区分される。たとえば「傘をもって外出するかもたずに外出するかを選べ」なる選択は、もしわれわれが外出しないならば、しなくてもよい。又「私を愛するかそれとも私を憎め」あるいは「私の説を真と呼ぶかそれとも偽と呼べ」も同様であり、その時には愛したり憎んだりもしないで無関心のままでいることもできるわけだし、あるいは私の説になんらかの判断を下すのを控えることもできるのである。こういった選択は回避可能である選択といわれる。それに反し、たとえば「この真理をうけいれるか、それともそれなしですませろ」となると、それは強いられた選択になる。この場合その両者以外の立場にたつことができない。選択しないという可能性のないところの、一つの論理的選言に基づくディレンマがこの強いられた選択なのである。第三の選択はその選択によってえられる獲得物の価値が問われている。重要な選択とはその選択をなすかどうかによって人生に花をそえるか、後悔を生むかが導かれる場合であり、しかもその選択の機会も数的にわずかしかない場合である。唯一の機会の場合はなおさら重要な選択である。たとえば世界一周旅行の勧誘をうける場合とかあるいはあこがれの地位の就任の推薦をうける場合である。それに反してつまらない選択とはその選択の機会がいつでもあったり、又どの仮説を選択しても大した成果もなく、従って賭けるほどの価値のない選択である。このような選択はいつでも取り消すことのできるものであり、たとえば歩きだすのに右足から行くべきか左足から行くべきかの選択に類した程度をさす。
 二 D.Hume: A Treaties of Human Nature,Everyman's Library, Tp.26
  1 P.P., U, p.78
2 ib. p.293
3 ib. p.283
4 ib. p.532
5 V.R.E., p.490
6 P.P., U, p.320

第六節

 一 この百人一首は『心理学要論』(訳書名『心理学講義』)を訳した福来友吉氏の選んだものである。尚原文はロックスレー・ホールの次の詩である。
"I, the heir of all the ages in the foremost of time,"
"For I doubt not through the ages one increasing purpose runs."
1 P.P., T, p.258
2 ib. p.567~568
3 ib. p.250~251
4 ib. p.251~252
5 ib. p.253
6 ib. p.254
7 ib.
8 ib. p.255
9 W.B., p.51
10 ib.
11 V.R.E., p.58
12 S.P.P., p.10
13 T.T., p.8~9
14 On Some Omissions, p.19
15 P.P., T, p.472
 16 On Some Omissions, p.18
17 P.P., T, p.461
18 S.P.P., p.55~56
19 P.P., T, p.269

第七節

一 T.C.W.J.,U, p.388 
二 ib. p.394
三 ib.
四 ib. p.391
五 ib. p.388
六 J. Wild; The Radical Empiricism of William James, Dubleday,1969 p.412
七 ib.
八 ib.
九 ib. p.367
一○ ib.
一一 ib. p.368
一二 ib.
一三 ib. p.370
1 P.U., p.291
2 E.R.E., p.76
3 ib. p.15
4 ib. p.127
5 ib. p.134
6 ib. p.23
7 ib.


第三章

第一節

 一 H.Bergson; La pensee et le mouant,P.U.F.,1950 p.239
二 高坂正顕「ウィリアム・ヂェイムスの認識論と形而上学」『哲学研究』一四九号、一二一頁
 三 本節はジェイムズのプラグマティズムのみをとりあつかって、他は省いている。その意味ではわれわれは本節でもってプラグマティズムそのものを理解したことにはならないという点を確認しておかなければならない。本節はあくまでもジェイムズ思想の一局面を展開しているにすぎない。尚プラグマティズムの思想そのものをよりあきらかにするには、後述されるパースをはじめ、デューイやミード及びイギリスのシラーやシジウィック及びフック等の考え方を知らねばならないだろう。
 四 C.S. Peirce; Collected Papers of C.S. Peirce,Harvard Press, 1960, p.402
1 W.B., p.275
2 Prag. p.53
3 ib. p.42
4 ib. p.44
5 ib.
6 ib.
7 M.T., p.182
8 Prag. p.47
9 ib.
10 ib. p.134
11 M.T., p.186
12 ib. p.191
13 ib. p.195
14 Prag. p.147
15 M.T., p.201
16 ib. p.205
17 ib.
18 Prag. p.135
19 ib.
20 M.T., p.38~39

第二節
 一 ただここでわれわれが忘れてはならないのは、プラグマティズムが特殊アメリカの社会思想を代弁する哲学であり、いわば当時のアメリカ思想の凝縮物であるということである。一八六○年代につくられ、七○年代の初頭において最も活発であった「形而上学クラブ」はその思想運動の認められる先駆的象徴的役割をはたしたにすぎない。いいかえればプラグマティズムは社会の思想的要請として発展してきているといわれるべきであり、前述のパースの二論文の発表が必ずしもすぐに認められないで、それから十年後のジェイムズの『哲学的概念と実際的結果』(1898)によってやや認められ、再びそれから九年後の『プラグマティズム』によって、その確固たる地位を築くに至ったのは、ジェイムズの個人的資質による影響というよりは(それも大いにあるであろうが)、やはりプラグマティズムの思想をうけいれる土壌が時代の経過とともに形成されていったからであろう。
 二 J.E.Smith; The Spirit of American Philosophy, p.144
 三 ジェイムズのプラグマティズムが後にパースより批判されるところとなり、パース自身自らの考えをプラグマティズムというようになったのは有名な話である。これは「実際的結果」をとらえる両者の違いに基づいている。パースはプラグマティズムを単に概念の意味をあきらかにするための方法論として、換言すれば科学的思考方法に基づく論理学的追求の手段として考えていた。従ってパースにあっては「検証可能なもの」にあらざる素材をプラグマティックな方法に従わせる逸脱的行為は論理学の問題として「概念の明晰化」のみに力点をおく彼の観点からは到底考えられなかったのである。この「実際的結果」についての分析は魚津郁夫氏によってするどくなされている。氏はジェイムズの意味する「実際的結果」を次の三点にまとめた。(1)概念の予示する検証可能な経験、(2)概念を信奉することによってもたらされる結果、(3)概念自身の与える感情への訴え、である。氏はさらに具体例を次のようにあげてわれわれの理解を助けている。「第一に、『ダイアモンドは固い』というときの『固い』という概念の予示する『もしダイアモンドに切りつけたとしても、傷つかないであろう』という可能的経験がその概念の『実際的結果』と考えられる。第二に、『地獄はこれこれである』というときの『地獄』という概念は、いま説明した第一の『実際的結果』とは別に、その概念を信奉することによって、地獄にとちるという恐れから道徳的に行為するという『実際的結果』を生みだす。すなわちこの場合は、『もしそれを信じるならば……』という、概念の信奉がもたらす結果が『実際的結果』と考えられる。第三に、ヴェーダ哲学が『一者』を説くとき、読者は必ずしもそれを信奉しないにもかかわらず、その言葉に情緒的な満足を覚える場合がある。ジェイムズはこのようなある概念の直接的、情緒的な訴えをも、その概念の『実際的結果』の中に含めて考えたのである。」(講座『現代の哲学』V、プラグマティズム、有斐閣、W科学と宗教、を参照)
1 Prag. p.14
2 M.T., p.xii
3 Collected Essays and Reviews, Longmans,Green,1920,(abbr.C.E.R.), p.412
4 W.B., p.vii~viii
5 ib. p.ix
6 ib. p.3
7 Prag. p.18~19


第三節
 一 E.Hardwick; The Selected Letters of William James, Farrer,Straus and Cudahy,1961, p.xix
 二 ここではジェイムズの神秘主義観について若干触れてみたい。神秘主義はジェイムズにとっては否定的に考えられていない。『宗教的経験の諸相』では『神秘主義』のテーマで二講義を設け、宗教との関連についてのべている。その冒頭において「個人的宗教的経験は意識の神秘的状況のなかに、その根と中心をもっているといえる」(V.R.E., p.370)と彼がいっているのは神秘主義を積極的に認めようとする彼の態度のあらわれである。もっともここで論者のいっている「ある種の神秘主義」は否定的な意味あいをもっている。ジェイムズによれば、それは「限界に走り、単一観念化の傾向をもつ神秘主義」(ib. p.515)として、唯一神を招来させるものなのである。
 三 T.C.W.J.,U, p.438
 四 第三章第二節、注三を参照
 五 『宗教的経験の諸相』第二十講においてジェイムズはリューパ教授の次の文章を引用して自説に代えている。「神は知られない、神は理解されない、神は利用される─時には食物調達者として、時には道徳的支えとして、時には友として、時には愛の対象として。もし神が有用であるのがわかるのであれば、宗教的意識はそれ以上を求めない。神は実際に存在するのか?神はいかにして存在するのか?神とは何であるのか?それらはみな見当違いの質問である。神ではなく、生命が、より多くの生命が、より大きくより豊かでより満足を与える生命が、結局のところ、宗教の目的なのである。いかなるレベルの発展であれ、生命への愛が宗教的衝動なのである。」(V.R.E., p.497)
 六 植田清次氏は『プラグマティズムの基礎的研究』(四○の八)の中で次の趣旨の言明をしているのはジェイムズの場合にもあてはまっている。「プラグマティズムは既存の宗教思想もしくは『神』観に反発し、離反して、出発した点に重大な特色をもつ。しかしながらプラグマティズムは宗教そのものを人類の生活から除去するのではなく、べつの意味の宗教思想と『神』観とを包蔵する。プラグマティズムは行動ということばによって神々を追放したが、また行動ということばによって神々を迎えいれている。」
 七 本文でもあきらかなようにわれわれがジェイムズの神観を理解しようとする時に注意すべきは、神の無限性を前提にすると絶対に神を理解できないということである。ジェイムズの神はこの宇宙の中に存在する本質的に有限な存在、すなわち力においても知識においても、あるいはその両方においても有限な存在であって、神のなかに宇宙をともなっているのではない。いわば神は個物の一つとして存在するのである。この意味で、ジェイムズは神と絶対者を区別して考えている。絶対者は言葉上作られた無限的絶対的存在であり、その限りにおいては、われわれに何の救いも与えないばかりか、そのことの故に有害でもあるのである。この時点において、ジェイムズの神観は独断的な宗教家、神学者、一元論的観念論者といった一部の人のためにではなく、普通の人間のために役だっている。「普通の人間の宗教的生活においては『神』は事物全体の名前では断じてない。それは自分の目的に協同しようと呼びかけ、その目的が価値あるならば、われわれの目的をおしすすめてくれる超人として、信じられた事物における理想的傾向の名前にすぎないのである。」(P.U.,p.124)ジェイムズが彼独特の神観でもって神を信奉しているという意味では、彼は有神論者であろう。しかし厳密には彼は有神論者であって、しかもそれをとびこえている。それはいかなる意味なのか。『反射作用と有神論』において彼は次のように説明する。「有神論はわれわれの活動本性のエネルギーに厳然と訴えかけるし、情緒の本源を正常且つ自然に解放する。それは世界の死せる空白のそれをすべての人間がかかわる活気あるなんじに一挙に変える。……さて私が話している有神論をとびこえる試みとは、神とその信奉者というこの究極的二元性を克服して、それをあれやこれやの種類の同一性に移行する試みなのである。有神論以下で世界をみる方法がそれを三人称のままにしておくならば、それは単なるそれである。そして有神論がそれをなんじに変えるならば─われわれはこれらの理論が他と違ってそれを一人称の外被でつつみ、それをわれの一部にしようとする」といってよいだろう。(W.B., p.127,134)
 八 この主張は有名な「パスカルの賭」をおもいださせる。ジェイムズもそれについて『信ずる意志』の中で触れている。
1 P.U., p.314
2 ib.
3 V.R.E., p.35
4 ib. p.490
5 C.E.R., p.427
6 V.E.R., p.30
7 ib.
8 W.B., p.4
9 ib. p.133
10 ib.
11 ib.
12 ib. p.xi
13 ib. p.x
14 ib.
15 ib.
16 ib.
17 ib. p.16
18 S.P.P., p.25
19 W.B., p.56
20 ib. p.51
21 V.R.E., p.31~32
22 ib. p.28
23 ib. p.29
24 ib. p.53
25 ib. p.445
26 Prag. p.186
27 V.R.E., p.38
28 ib. p.39
29 Prag. p.57
30 ib. p.59
31 ib. p.132
32 ib. p.140
33 W.B., p.214

第四節
 一 たとえば次のような例をあげている。「私はかれこれ二十分程、読書をしていた。書物にまったく夢中になっていたのだ。私の心は完全に平静であり、しばらくは私の友などまったく忘れていた。その時突然なんの警告もなく私の全存在は緊張のあるいは生の脈動の最高状態に高められたようにみえた。そして経験しない者には容易に想像されない激しさで、部屋に他のものの存在がある、あるいは現存しているということに、否そればかりではなく、まったく、私の近くにいるということに気づいた。私は本をおいた。私の興奮は大きかったけれど、まったくおちつきを感じ、恐怖感を覚えなかった。私は自分の位置を変えないで、火をまっすぐみつめながら、どういうものか、友人のA・Hが私の左肘のあたりに、もたれている肘掛椅子に隠れるようにして私のうしろに立っていることを知った。位置を変えずに目を少しまわすと、一方の脚の低い部分がみえるようになった。私はただちにそれが友人のしばしばきている薄紺のズボンの生地であることを認めた。しかしその織物は半透明にみえ、たばこの煙がもうもうとたちこめているのを思いださせた。」(V.R.E., p.61)これは「なにものかが現存する」意識の例のひとつをのべたものだが、次の例ではそれが「霊的なもの」であるとはっきりいっている。「夜、まだ早く、私はめざめた。……私はわざとおこされたかのように感じ、最初は誰かが家に侵入してきた、と思った。……それから私は寝がえりをうち、再び眠ろうとした。そしてすぐに部屋にあるものの現存の意識を感じた。それから、変な話だが、それは生きた人間の意識ではなく、霊的な存在の意識であった。このことは笑いをひきおこすかもしれない。しかし私はその事実が生じるままにしか語りえないのである。私は霊的な存在の意識を感じた、とのべる以外に、いかによく自分の気持をかきあらわすかを知らないのである。私は同時にまた奇妙なおそろしいなにかがまさにおころうとしているかのような迷信的な恐怖の強い感じをもった。」(V.R.E., p.61~62)これらの例は現代風にいうと、幻覚症状であり、異常心理学の部門に属する。ジェイムズは人間の正常な意識の背後にもかかる意識が存在することを正当にみとめ、それが宗教的生活の特徴を端的且つ客観的にあらわしているのだと考えているのである。
 二 植田清次『プラグマティズムの基礎的研究』早大出版、昭和三六年、一七九頁
 三 「精神的判断」とは具体的に何を意味するのか、ジェイムズは次の如くいっている。「宗教的意見の価値はその意見に直接にくだされる精神的判断によって確かめられうるのみである。即ち、第一には、われわれ自身の直接的な感情に基づいた判断、第二には、われわれの道徳的要求、及びわれわれが真理とする他のものに対する宗教的意見の経験的関係を確かめうるものに基づく判断によって。要するに、直接的明白性、哲学的合理性、道徳的有用性が唯一の有効的な基準なのである。」(V.R.E., p.19)
 四 J.Royce; William James and Other Essays on the Philosophy of Life, The Macmillan, p.36
五 J.E.Smith; The Spirit of American Philosophy, p.69
 六 E.C.Moore; American Pragmatism, Colombia Univ., 1961, p.129
 七 伊藤保美『宗教哲学の研究』理想社、昭和六年、七五頁
 八 C.W.Mills; Sociology and Pragmatism, Paine-Whitman Publishers, 1964, p.255
 九 伊藤保美、前掲書、九四〜九五頁      
1 V.R.E., p.445
2 ib. p.507
3 ib. p.506
4 ib. p.506~507
5 ib. p.148
6 ib. p.501
7 ib. p.473
8 ib. p.515
9 ib. p.502
10 ib. p.503
11 ib. p.231
12 ib. p.370
13 ib. p.503
14 P.U., p.329
15 ib.
16 W.B., p.135

第五節
 一 T.C.W.J.,U, p.585 
 二 ib. p.586
 三 この言葉はベルグソンの言葉でもある。
1 W.B., p.ix
2 P.U., p.310~311
3 Prag. p.107
4 S.P.P., p.138
5 ib.
6 P.U., p.124
7 S.P.P., p139
8 ib.
9 M.T., p.228
10 ib. p.229
11 S.P.P., p.143
12 V.R.E., p.120~121
13 S.P.P., p.205
14 ib. p.205~206
15 ib. p.200
16 ib.
17 ib. p.148
18 ib. p.145
19 M.S., p.401
20 W.B., p.177

第六節
 一 T.C.W.J.,U, p.443
 二 一九○三年六月九日付でジェイムズにあてたシラーの手紙には次の『新ピタゴラス対立表』が描かれている。
   一、善と有限論─悪と無限論
   二、ヒューマニズム──スコラティシズム
   三、プラグマティズム──字義偏重主義
   四、パーソナル・アイデアリズム──ナチュラリズム
   五、多元論──絶対主義
   六、根本的経験論──アプリオリズム
   七、主意主義──主知主義
   八、神人同形同性論──無定形主義
   九、ブリッティシズム──ゲルマニズム
   十、ウィッティシズム──バーバリズム
 三 アメリカの心理学者G・W・オルポートは『ウィリアム・ジェイムズの生産的パラドックス』と題する論文の中でジェイムズの様々な教説の根底に次の六つのパラドックスのあることをみぬいている。即ち
(1)精神的物体の関係における自動機械説の認容とその逆の非難的態度、(2)実証主義と現象論、いいかえれば客観主義と主観主義の二つの特徴、(3)経験的自我と潜在意識の領域の自我の双方の認容、(4)特に観念構成の活動性をめぐっての自由論と決定論の立場、(5)観念連合論者的性格と悲観念連合論者的性格、(6)機能論者的個性と抽象論者的個性の特徴。
 オルポートにいわせればジェイムズは一方で彼自身の硬い心によって、次には彼自身の軟らかい心によってかりたてられたかのように住家から住家へと動いているのである。もっともジェイムズのかかる六つのパラドックスはあらゆる心理学者が遭遇するものでもあると述べられている。オルポートはそれを次の六つの謎としている。
 一、心理学的謎、二、実証主義の謎、三、自我の謎、四、自由意志の謎、五、観念連合の謎、六、個体の謎。
1 Prag. p.22~23
2 W.B., p.142
3 S.P.P., p.57~58
4 Prag. p.193
5 S.P.P., p.228~229
6 ib. p.229
7 ib. p.229~230
8 ib. p.230
9 ib.
10 ib.
11 W.B., p.158
12 ib. p.179
13 ib.
14 ib.
15 ib. p.13
16 Prag. p.18~19
17 W.B., p.294
18 ib.

第四章
第一節
 一 T.C.W.J.,U, p.575
 二 J.Locke; An Essay Concerning Human Understanding, Everyman's Library, 1961, T, p.77
 三 ib.
 四 ib. p.90~91
1 V.R.E., p.53
2 M.S., p.286

第二節
 一 マクグリーン・トウナー共著『現代の倫理理論』第一章を参照
 二 レーニンの『唯物論と経験批判論』を参照
 三 D.Hume; A Treaties of Human Nature, T, p.173
四 ib.
五 ib. U, p.178
1 W.B., p.184
2 T.T., p.91
3 ib. p.113
4 W.B., p.197~198
5 ib. p.210

第三節
 一 C.E.R., p.x
二 T.C.W.J.,U, p.xc, xci
三 Psychological Reveiw, vol 50, p.95~96
1 W.B., p.214

第四節
一 C.W.Mills; Sociology and Pragmatism, p.264
二 ib.
三 ib. p.269
四 ib.
五 ib. p.270
六 ib. p.271
七 ib.
1 M.S., p.286
2 Prag. p.142
3 W.B., p.30

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